最近になってアスベストによる健康被害が一気に注目され、社会化問題となってきました。この健康被害の多くが肺及び胸膜疾患であることから、当ホームページでも、今回このテーマを取り上げてみました。
アスベストという言葉は、あまり馴染みがなく、聴いたことはあっても特に気にされていなかった方が多いのではないでしょうか。私も、医者になる前までは、石綿といえば、理科の実験で三角フラスコの下に敷いた、石綿付き金網くらいしか思い出しませんでした。また医者になった後でも、アスベストによる健康障害は、教科書では習うものの、実際にアスベスト吸入が原因で引き起こされたと思われる病気の人を診療する機会は、ほとんどありませんでした。医者になって27年経過し、しかも呼吸器疾患を中心に仕事をしてきた私でさえ、ほとんど経験しなかった、非常に稀な疾患といえます。
それでは、どうして今になってアスベストが注目されるようになったのでしょうか。それは、アスベストにさらされてから病気が発症するまでに、15年から50年という長い期間がかかるからです。1960年代から1990年代にかけ、多量のアスベストが造船、建築、自動車、電気製品製造業で使用され、その影響が最近増大しはじめたことが判明したからです。この健康障害はあきらかに公害です。アスベストを扱う工場や職場の周囲の人たちも、知らないうちに影響を受けたのですから、当然社会問題になるわけです。
【アスベスト暴露による呼吸器病変】
石綿肺:いわゆる塵肺のひとつです。肺が線維化し徐々に硬くなってきます。柔らかなスポンジがゴワゴワの「へちまタワシ」の様に変化すると思ってください。元に戻る、つまり治ることはありません。かなり長い期間アスベストに暴露しないと発症しません。私が大学の医局員時代に一人だけ典型的な患者さんに会いました。このおばあちゃんは数十年間アスベストの繊維で布を織る仕事をしていたのです。
胸膜肥厚斑(胸膜プラーク):これは病気というより病変というべきものです。胸膜が部分的に厚くなり(肥厚する)、後に石灰化するもので、胸部レントゲン写真でときどき見つけることがあります。これを見つけても、すぐに治療を必要とするものではありませんが、明らかにアスベストに暴露されていたことを証明する重要な所見です。ですから、このプラークのある方は定期的にCTなどの検査を行い、常に肺がんや悪性中皮腫の発生に注意する必要があります。
肺がん:アスベスト暴露に起因する悪性腫瘍としては肺がんが最も多い疾患です。しかし肺がん全体の中でアスベストが原因である肺がんの割合は非常に低く、喫煙に伴う肺がんの方がはるかに多いと考えられます。肺がんに関しては色々なところで話題になっていますので、今回はこれ以上触れません。
悪性中皮種:今後40年間に悪性中皮腫で死亡する人が男性で10万人以上と言われています。そう聞くと誰もがドキッとするでしょう。しかし、よく考えてみると、現在肺がんで死亡する人は毎年5万人以上、自殺する人が3万人以上、交通事故死がやっと1万人以下になったとされています。今後40年間で計算してみると、悪性中皮腫で死亡する人の割合は、全体の死亡数からみるとそう高くはないと思われます。
ところで悪性中皮腫ってどのような病気でしょうか。まず皆さんは知らないのではないでしょうか。聞いたこともないという方のほうが多いと思います。私が最初にこの病名を聞いたのは、アメリカの映画俳優のスティーブマックイーン(大脱走、華麗なる賭け、パピヨン、タワーリングインフェルノなどの映画で有名ですね)が悪性中皮腫で亡くなったときでした。まだ学生だったと頃と記憶しています。その後医者になって27年間に、直接この病気の患者さんを受け持ったことはありません。間接的に経験した方が数例いらっしゃった程度です。この27年間には、おそらく2万人以上の患者さんを直接診ているはずです。(開業後7年間のみでカルテ数が1万3千に達しています。)そして、このうち肺がんの方を数百人以上受け持ったと考えられます。悪性中皮腫の頻度がいかに少ないかお分かりいただけたと思います。この病気はインフルエンザのように感染するものではありません。一般の方がパニックに陥らないよう冷静な対応が必要です。ただし、過去にアスベストに暴露されていたと思われる方々には呼吸器の専門医による定期的なチェック(胸部レントゲン検査、CT検査など)をお勧めします。過去のレントゲン写真との比較が重要ですので、信頼できる医療機関に定期的に受診され検査を受けることが肝心です。
さて、この稀な疾患の概要をお話したいのですが、細かなことはインターネットで調べるとかなり多く見つかります。ほとんど同じ内容で簡単な医学教科書の内容と変わりません。はっきりいって一般の人にはピンとこないのではないでしょうか。そこで当ホームページでは具体的な内容に絞って、皆さんの印象に残るよう画像を中心に説明します。
まず<図1>を見てください。胸部の立体模型で、前額面に切断(両肩を結ぶ線で上下に切断したと考えてください)された状態が示されています。これは当院に設置してある模型です。<図2>のシェーマ(図式。図解)も参考にしてください。左右に肺の断面が見られ、この内部に枝分かれするように、気管支(青のシマシマ模様)、血管(動脈が赤、静脈が青)が走っています。中央には大動脈(赤)、大静脈(青)、気管(シマシマ)があり、ど真ん中には本来心臓が位置しています(シェーマでは、今回心臓は取り除いてあります。)。
ポイントは肺を覆っている胸膜です(Pl、オレンジのライン)。横隔膜(D)面も含め肺全体の9割以上を覆っています。この胸膜は実は1枚ではなく2枚で成り立っています。分りにくいと思いますが、簡単に言うとごみ袋(なかなか開けにくいですね)が覆っていると想像してください。片側の1枚が肺にくっついて、反対側の1枚が外側の肋骨や肋間筋にくっついている。そして、この袋の中には、わずかに30-50ml程度の胸水があり、この水のおかげで2枚の胸膜がすりあう時に(呼吸運動のことです)摩擦が少なくなるという仕組みです。ちょっと難しいですか?この2枚の胸膜の表面には細胞が1つずつ石畳のようにきっちり並んでいます。
この細胞が中皮細胞といわれるもので、この細胞が増殖、悪性化したものが胸膜中皮種なのです。細胞には上皮細胞(皮膚の上皮、胃や腸の粘膜上皮細胞など)、内皮細胞(血管内皮細胞など)及びこの中皮細胞があります。上皮細胞が悪性化したものが癌と呼ばれます。ですから中皮細胞が悪性化したものは癌とはいわず悪性中皮腫となるわけです。1層に敷きつめられた中皮細胞が悪性化して増殖してくると、どんどん細胞の数が増えます。先程のごみ袋の例えでいうと、袋の中に少しずつおからのような物を入れていき、徐々に袋が厚く膨らんでくると想像してください。均等に厚くなるのではなく、凸凹になると思ってください。そして、その悪性細胞が(おからが)増え続けると、内側の肺が外側から押されて縮んできます。
さらには悪性細胞は肺の中に侵入してきます。こうして肺が侵されていくのです。<図3>は、ほぼ正常と思われる胸部レントゲン写真です(私の写真です)。左右の黒いところが肺で、中央の白い部分が心臓です。悪性中皮腫のレントゲン写真のシェーマを<図4>に示します。向かって左側の肺の外側が厚くなり、一部は肺の中にまで入り込んでいる像です。シェーマなので黒白が逆になっています。
<図5>も代表的な悪性中皮腫のレントゲン像です。
向かって左側は肺の半分以上、特に下の方が見えなくなっています。このシェーマの黒い部分(本物のレントゲン写真では白くなっています)は胸水と腫瘍が混在しているところです。上部にみえる肺の外側の胸膜も腫瘍により厚く見えています。このように胸水貯留として見つけられることも多く、この場合は他の原因で胸水を生ずる疾患を鑑別する必要があります。この代表が原発性肺がん、転移性肺がん、結核です。われわれはレントゲン写真で胸水を見つけたときは、まず癌か結核かと考えます。それくらい頻度が高いからです。そして色々検査を重ねて癌も結核でもなさそうなときに、その他の稀な原因疾患を疑います。その中の一つに悪性中皮腫が入ってくるというわけです。実情はこんなところで、この疾患はかなり稀であると考えています。
さて、この病気の診断ですが、これがまた難しいのです。典型的な癌の場合は胸水や喀痰から癌細胞を見つければ、すぐに診断がつきますが、悪性中皮腫の場合は腫瘍細胞の見分けが難しいのです。腫瘍の塊の一部を取り出して顕微鏡で病理の医師が判定して診断がつけばいいのですが、それでも診断できず悪性中皮腫の専門家に依頼してやっと診断がつくことも稀ではありません。それくらい診断に苦慮する疾患なのです。そして、診断に手間取っている間に病気がどんどん進行してしまったなどという話も良く聞きます。
最後に治療です。なるべく早期に見つけ、手術でまるごと取り出すことしか治る道はありません。場合によっては外側の肋骨や筋肉の一部も一緒に摘出することもあります。病気が広がりすぎて、手術で完全にとりきれない場合は完治できません。
まとめです。悪性中皮腫はとてもやっかいな病気です。とにかく早期に診断し完全摘出することが大事です。このためには、まずアスベストに暴露されたと思われる患者さんは専門家(呼吸器科)を受診すること。胸部レントゲンおよびCTで胸膜の肥厚や胸膜プラークが見つかった人は、さらに肺がんと悪性中皮腫の精査を受けること。現在異常が見られない人も、定期的に同じ医療機関で検査を受けること、そして以前のレントゲン写真と比較検討してもらうこと。
これが早期診断に最も重要な結論です。